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古布<kohu>
身体哲学ファイルLOGOシリーズVOL18
シンプルな構成、毎回与えられるロゴは、
僕のパフォーマンスに対する情熱と極意を一つ一つ形にしたものです。
今、傾舞(KABUKU-MAY)唯一の定期公演、
純粋な傾舞(KABUKU-MAY)が体験できる唯一の機会です
dance / JUN
Sound : J (シタール)
place / Salon de AManTo天人
OPEN 19:00〜
START 19:30〜
2000円 予約(1ドリンク付き)06-6371-5840 jun@yura-ism.com< 解 説 >
古布<kohu>
古布とは鍛え上げられ修練された肉体、もしくはその過程で得た技術の事
表現をするために身につけたものは目的ではなく手段なのだから、それに捕らわれて
無限の迷宮に迷い込む表現者を戒めて、「古布の捕らわれ」という
努力の成果をボロをまとった衣装のように考え脱ぎ捨てなさいといわれても
なかなか出来ないもの、それには努力には普通モチベーションが必要だから、
結果を求め、目標を設定し、計画を練って、精進する…これが一般的なセオリー
しかし芸能者の場合これが必ずしもそうとはいえない、
昔のダンサーは本当によく稽古した。
まさしく生活のすべてがダンスだった。
しかし太古のダンサーは逆に全く稽古をしなかったという
日常の生活と祭事、芸能がまだ分かれていなかった時代
表現とは学校で訓練して学ぶものではなく、自分の中に自然を降ろして
感じて動くものだった。
芸術が対自然に対して行われていたので、形が大して大切ではなかったとも
いえるのだが、村人が祭事に直面すると途端に神がかった舞人に変身するのだ。
つまり舞人の要素はその村の人であることや、神話、伝承に精通し、その場所で
生活する事自体が舞の修行でもあった。
本質の部分を抑えて芸が神事としての役割を機能する
事がすべてであったのだからだ。
時代が進んで効率のよい方法論が整理確立され伝承されるようになると
舞うことのできるのは、天性の素養を見出され選ばれるか
民族的に舞踊の得意な氏族が専任させられる必要もなくなった。
ここでダンス=身体で表現する事…
と意味は単純化して使われるようになって
人がダンスをしても参加してる人は満足するのだか、
大地やこの星に影響を与える太古ダンサーは
消え去ってしまう。
(実は消え去ったよう見えているだけだけど…)
ダンスは旧石器時代、まだ言語が確立していなかった時代から
コミュニケーションの道具立てとして確立していた。
言葉が十分でなければ身体運動で表現しなければならないからだ。
ゴリラに白目がないのは縄張りを支配するためには自分の心のうちを知られないほうが
よいからであり、ネアンデルタール、クロマニオン、原人、縄文人と
我々が瞳孔以外を脱色して進化してきたのは、
ひたすら他とコミニケーションがとりたかったからだ。
「目は口ほどに物をいう…」というのはここから来ている!
ネアンデルタールと現代の僕らの違いは、骨格的相違による発音できる
音の種類の違いでしかなかった。
つまり、組み合わせられる音の少ないネアンデルタールは滅び、
よりコミュニケーションとれる我々が生き残った。
瞳→言語→のろし→文字→電話→インターネットと…
道具立てが変わってはるが、我々が求めていたのは
「よりコミニケーションとりたい!」という
潜在意識からのオーダーにしたがっているに過ぎない。
では…
「なんのために?」
この問いが全ての芸能の根本に関わってくるキーであり秘儀なのだ。
ここではその言及は本論にそれるので割愛するが、
古布はこれら道具立てに捕らわれる事によって
自らの意識の進化にブレーキをかけ
現代のゴリラやネアンデルタールのようにならない事を教えているのだ。
どんな美しい衣装もそれは自分自身からは遠い存在なのだ。
どんなすばらしい技術や能力もそれに捕らわれてはいけない
古い衣装を脱ぎ捨てるように絶えず、本質に帰れる境地こそ
逆に古布(様々な道具立てや技術)を自在に操る事ができるようになる…
いや、すべてから離れないとそれらに純粋にアクセスできないよという意味なのだ。