身体哲学ファイルVOL17 筐(Katami)
筐(Katami)
身体哲学ファイルLOGOシリーズVOL17
シンプルな構成、毎回与えられるロゴは、
僕のパフォーマンスに対する情熱と極意を一つ一つ形にしたものです。
今、傾舞(KABUKU-MAY)唯一の定期公演、
純粋な傾舞(KABUKU-MAY)が体験できる唯一の機会です
dance / JUN
Sound : Yoshiki
place / Salon de AManTo天人
OPEN 19:00〜
START 19:30〜
2000円 予約(1ドリンク付き)06-6371-5840 jun@yura-ism.com< 解 説 >
筐(Katami)
箱の底。箱の中。
昔から「筐(Katami)に秘(ひ)める〜」という言葉があるが
箱の底に他人の目に触れないように、大切にしまっておく事をいった。
ハコの底は昔から「筐底(きょうてい)」といって最もプライベートな場所だったのだ。
しかし考えてみると「筐底」(きょうてい)という言葉があることから
逆に最もポピュラーな隠し場所であるともいえるのだから、
子供の頃から不思議に思ったものだった。
昔、裁縫箱を古道具屋にもらって母に見せたところ、ヘソクリを隠す、
秘密の引き出しの場所を教えてくれた。
「なんで知ってるのか」
と聞くと、
「裁縫箱は皆そうなっている」
…と摩訶不思議な事をいう。
旦那様に隠すという意味なのか!?
主婦共通の秘密が商品化されたものなのか…??
この昔の「隠す」という行為には
今にないとてもおおらかな、ユーモアみたいなところがあると思う。
筐(Katami)は一般には竹製の目の細かい籠(かご)で
勝間(かつま)。堅間(かたま)ともいう。
「春の野の筐(Katami)につめる若菜なりけり/新古今」
だから「筐(Katami)の水」というと
すぐに漏れてしまうことから、物事の頼みがたいことをこう言った。
「今はまたかげだに見えぬうき人の筐(Katami)は涙なりけり/続古今」
又、時には筐(Katami)を玉手箱という意味でも使う事がある。
「竜宮城」に出てくるアレだ。
こう見ていくと、大切なものとは一体箱の事なのか、隠された中身の事なのか…
筐底(きょうてい)に隠された事によってそれそのものの
値打ちが上がるのか?
謎は謎を呼ぶ!!
筐(Katami)=玉手箱という事まで考え合わせると、
浦島太郎がハコの中に見たものは自分自身の魂だったという説がある。
(筐の中には魂をいれる!?)
乙姫が永遠の時を刻む竜宮城という異界に浦島をとどめて置くために
彼は魂を抜く(=死ぬ)必要があった。
しかし地上に帰りたがる浦島に、悩んだ乙姫は筐(Katami)に彼の魂をいれ、
「戻ってきたかったら、箱を開けないで!」といったのだという。
しかし彼は地上でハコを開けてしまい、
魂は現世へ旅立ち、彼は老人になってしまう…
筐(Katami)とは自分自身の本質、自分自身の分身が宿る場所なのだ。
こう考えると筐(Katami)は自分を自己足らしめる意識の入れ物(肉体、意識自身)
と考える事もでき、
その一番底に秘めたる秘宝とは、実は自分自身なのだとう事になる。
日本にある、この「最も尊いもの(=神)とは自分」という思想は
ミクロネシアから日本、環太平洋全域に見られるポピュラーな神話の祖形でもある。
日本神道の神社はその最深部、社の奥、神殿の祭壇にまでいくと
ただ鏡が置かれているだけというのは有名な話、
神とは何なのかと境内深く、入り、神殿の中で発見するのは
鏡に映った「自分自身」なのだ。
筐(Katami)を心に持つ事は自分を受け入れる、「器」
つまり自分を信じる心を持つ事と同意ともいえる。
竹でできた粗末な箱は、清らかな水さえも通過させてしまうけれど
すべてを受け入れ、自分には溜め置かず、他に循環させる事を豊かさだと考える
我々黒潮の民のモンゴロイドの野生の思考、原始の智恵が息づいているのでは
ないだろうか…。
ダンスにおける筐(Katami)とは「劇場」というハコ自体を指すと共に
自己が作り出す「意識場」に他者である観客を招きいれ、
「他者との関わりにより自己を明らかにする行為…」
なのだとも言える。
そして筐(Katami)の中にいるダンサーという魂は、
その心の中に更なる揺れ動かされる筐(Katami)をつくり、
他者との関係を感じる魂をその中にいれ、震い清めるのだ。
傾舞(kabuku mai)のよいダンサーとは、
劇場(無生物)対 ダンサー(生物)という構造ではなく
幾重にも繰り返される筐(Katami)と連続と、
その中の意識の関係を理解し、体現する事が最も大切な事なのだ。