身体哲学ファイルLOGO VOL22 撓う(Shi na u)

kabuku mai







撓う(Shi na u)





身体哲学ファイルLOGOシリーズVOL21









シンプルな構成、毎回与えられるロゴは、





僕のパフォーマンスに対する情熱と極意を一つ一つ形にしたものです。





今、傾舞(KABUKU-MAY)唯一の定期公演、





純粋な傾舞(KABUKU-MAY)が体験できる唯一の機会です







dance / JUN





Sitar / J



place / Salon de AManTo天人

http://yura-ism.com/amanto/






OPEN   19:00〜    

START 19:30〜





2000円 予約(1ドリンク付き)06-6371-5840 jun@yura-ism.com




解説)撓う(Shi na u)とは、弾力があって折れずしなやかに曲がり、たわむ事
逆らわず物にしたがう事であり、順応すること
転じて、しなやかで美しい姿全体を傾舞では「撓ふる舞」という。

剣道の竹刀はこの撓い(Shi na i)から来ている。

しなやかな動きは何故美しくみえて、何故感動が伝わりやすいのだろうか
又、本物のしなやかさは、どこからくるのだろうか?

傾舞では老いによる運動の資質の低下を避けるため、限りなく効率のいい運動をするため
運動の支点、力点を絶えず意識する。

一般の運動は力点と作用点が同じ場合が多く、
ほとんどのダンスメソッドは動かす部分を微細に意識する事で自在にコントロールするが
傾舞の場合は空間全体を動かすために力点と作用点をできるだけ離すようにする。
これは直伝でないとなかなか理解しがたい話で、文章で書くのは難しいが

たとえるなら、足を踏むという動作は、一般の場合、足の裏を意識し、そこから力を入れていく。
上級者の動きもその延長線上にあり、結局は、足の裏をどう意識し、皮、筋肉、骨を別々に
コントロールできるようなる事がイコール上達である。

我々の場合は、意識できる事は当然として、それを動かすものは部位とは離れた場所に置く事をよしとする。

例えばこの場合、よく使うのは肋骨を操作して踏むという具合である。



さらに上達すると身体の外部に意識上の支点力点を置き、その支点を誘導する事によって重力に抗えない肉体をコントロールをする。

この技法により、ありえないバランス(がまく…という)や、
重力を消したような動き(浮き実という…武術の浮き身とは少し違う)を可能にする。
(実際はそう見えるだけでバランスはとれ、重力を使っているのだか…^^)
武術的には様々な応用の効く攻防のメソッドは
ダンスの場合、相手に目の錯覚や、不思議な浮遊感、どこに関節があるのか解らないような流れるような連続した動きを感じさせる、動きの起こりを消す事ができるのだ…
(どこが主になって動いているのか解らない状態をいう)

撓う(Shi na u)体は、自在でつかみどころがなく、身体の動きが空間にひろがり、
空間全体が動いているような錯覚を与える。

これを熟達すると空間の様々な要素を繋ぐ結節点として身体が立ち表れるようになり
身体自体が劇場で、もっとも真空な場所に錯覚される。

観客はなにもない空間に様々な色や風景が見え(想像する)
ダンサーは空間に投げかけられる意識のデータを感じて、
次々と、その濃い薄いを引っ掛けて支点、力点、又、作用点と変幻自在に作用を変えていく

これは即興の動きは予想不能の領域に進んでいく事になり
観客は自分とダンサーを介して意識でつながった劇場、客席、それら総体をソーシャル化していく事となる。
一般の「ダンサーを見る」をいう鑑賞とは全く次元の違うオルタナティブな意思がそこにある。

自我が消え、空間のもっとも凹んだ所、空の存在、それが撓う(Shi na u)場所が身体となった時
傾舞ではその極意を体現した身体を「シーナミ」といい、
日本語では「粃身(shiinami)」…と書く。

「粃(しいな)」とは、十分に実っていない殻ばかりで、
中に実のない籾(もみ)のことである。

「粃(shi i na)」と「撓う(shi na u)」とは遥か太古、
案外、同じ語源から派生した言葉なのかもしれないと思ったものだ。

今回はその「シーナミ」から、生じる不思議空間を皆さんに体験していただきます!
公演のための、いつもの断食も順調に進んでいます!
乞うご期待です!

お見逃しなく!!(^^)