身体哲学ファイルLOGOシリーズ「酔宵」(YOIYOI)

宵

「酔宵」 (yoiyoi)  

身体哲学ファイルLOGOシリーズVOL13



シンプルな構成、毎回与えられるロゴは、


僕のパフォーマンスに対する情熱と極意を一つ一つ形にしたものです。

今、傾舞(KABUKU-MAY)唯一の定期公演、
純粋な傾舞(KABUKU-MAY)が体験できる唯一の機会です

dance JUN
sound tadao ishihama


salon de AManTo天人
http://yura-ism.com/amanto/

OPEN19:00 19:30〜

2000円 予約(1ドリンク付き)0663715840 jun@yura-ism.com

解 説



酔宵(yoiyoi) とは


人が酔う様と、空が黄昏るあいまいな宵の口の状態をあわせた言葉である。
つまり人の曖昧さが空間の曖昧さにあいまって、きわめて曖昧な状態になった事を
示す言葉だ。
ダンスをするとき、劇場がこの酔宵の状態になったとき観客と舞手の境界線が
曖昧になり、その空間を共有する全員が舞台装置の一部となり必然的存在として
作品に関わり始めるものなのだ。
つまり、そこに集えし仲間として偶然でない必然の時空が共有され、
参加者全員の経験体験知識などが交錯し始める…観客はダンサーにいざなわれ
ダンサーは観客にいざなわれる…
そしてかつて体験した事のない経験を味わうのだ。

傾舞の公演が終わった後、明日からの生きる糧と人生の示唆を体感して
それぞれが帰路につく…。
そこにもはやダンサー観客の区別はなく時間を共有した人すべてが明日への表現者
なっていく状態を作り出す。
これは他のダンスに稀な傾舞(KABUKU-MAY)では中心になっている
踊りの命題なのだ。

だから酔宵はとっても大切。

逆にいえば、きれいなものを見に来た人、ストーリー仕立てのお話を期待してきた人
ストレス発散に非日常を味わいに来た人は、傾舞(KABUKU-MAY)は間違いなく面食らう。
劇場を通して自分を見つめたり、あるいは避けたがっていた自己の課題と
向き合わなくてはならなくなる場合もあるからだ。
(あくまでその人の自由意志、強制は何もないのだが純粋で心の綺麗な人ほど素直に
自分の感性を信じるもの…余計な解釈をしたがらないからそうなる場合がある)

私も以前は非日常で人を楽しませるエンターティナーであったし、今もそういう
事をしないわけではない。
しかし僕がもっとも研鑽し情熱を傾けてやまないのは
このマニアックかもしれないが新しいダンスの可能性の開発なのだ。

ダンサーはともすれば、観客との視界の集約点として、きわめて視覚的な象徴として
存在する…。それは音がダンサーと切り離され、音楽とダンサーに主従の関係を産む
最大の原因。どちらが主であるべきか、今まで数多くの学者が研究してきた。
(結論は当然でようはずもない…)
主従が発生し組み合わされたものには演出がなければバランスがとれなくなり、
それを補うため光(照明)、衣装、舞台装置をそれぞれ際立たせ、
微妙なバランスをとるようになる。
光、音、存在、空間は本来一つのものだったのにデコレーションするためにバラバラに
されるのだ。
結果、一般のダンス公演の場合、そこにはダンサーでも観客でも空間でもない
演出家が一番力をもった世界が確立されやすい。
彼らの力量が作品全体の大きな要素をしめるようになる。

優れた演出家の全体を見通す力は凡人の遠く及ばぬ所にあり、素晴らしいものがある。
しかしそれが観客と差があればあるだけ、観客と舞台は切り離され遠くなるばかりである
観客は傍観者といして劇場に置いてきぼりにされるのだ…

それは議論すらされず、現代まで興行としての商業を成り立たせてきた。
僕にはそれが寂しくてたまらない…。

しかしそれを目指すなら劇場にこだわるよりもっといい方法がある、
つまり、この予定調和の究極の形がハリウッド映画であり、
フルCGのアニメの作り出すバーチャルリアリティやゲームの世界だ。
今日発展著しいCGの技術によって
作家の意図は忠実に伝えられるようになり、人間では不可能な跳躍や、10年かけて習得する
正確な軸の運動を見せてくれる…
彼ら演出家、振付師は最高の相棒を手に入れた。
これらの技術はリアルとの距離をこれからもドンドン埋めていくだろう。
リアルである意味がなくなってしまうのだろうか?
もちろんだからこそ現実の人間がどこまで出来るかが醍醐味ともいえるのだが、
ダンスでオリンピックをするわけではないし、コンピューターと争ってもしかたない…

私は、舞台を生で見る醍醐味を考えた場合、
別の切り口で勝負するオルタナティブな道を提案している。
それが傾舞(kakubu may)である。

それはすべての境界をとりさり、与える与えられるではない世界観を創出する。
相互が関連しあい、作品は生でなければ意味のない世界を作る
その傾舞(kakubu may)を舞う究極の理想空間を「酔宵(yoiyoi)」と名付けた。

観客と舞台はダンサーの妙技により一個の生命体となる。
それによって劇場という生物の細胞である私たち一人一人が
自性を取り戻し自らを再生していく…
それは公演というより現象…
それが酔宵(YOIYOI)の空間がもたらす奇跡なのだ…!



貴方は舞台が終わった後なんとも宵の口のほろ酔いにも似た
不思議な感覚を覚えるかもしれない
心地よい疲労観と浮遊感、主体客体の判別を超えた世界観
これが即興舞踏である傾舞(kamuku may)酔宵の極意でなのである。


さらに専門的に興味のある方は…http://blog.goo.ne.jp/amanto/d/20060401